ブルース・パヴィット(Bruce Pavitt)

1959年イリノイ州シカゴ生まれ。
ブルース・パヴィットはシアトルの音楽シーンであったグランジの生みの親であり、ニルヴァーナ、サウンドガーデン、マッドハニーを最初に発掘したレコードレーベル「SUB POP」の創設者。アメリカの音楽史家、評論家、DJ、講演者、作家。
中心地から離れ無視されていた全米地方都市の音楽やアートの持つ力を信じ紹介することで拝金主義的かつ”有害な男らしさ”を振りかざす大きな企業やメディアへと中指を突き立てた。それを象徴していたのが、SUB POPから最初のレコードを出したニルヴァーナだ。彼の予言通り、シアトル発のエネルギーは大きなうねりとなり全米及び全世界を飲み込んでいくことになる。
1979年、大学卒業後、国内で唯一、自主制作音楽を優先的に放送するラジオ局KAOSで、「ロック」枠を担当し、西海岸パンクとラフ・トレードのリリースをミックスして流した。その新番組を『SUBTERRANEAN POP』と名付けた。1980年、同名ジンを制作した。これは地域別に独立リリースされたアメリカのロック・レコードに焦点を当てた初のジンであった。1981年の第3号で名称は『SUB POP』に短縮された。後に彼はこのジンを通じて、ジャド・フェア、ザ・ボーンマン・オブ・バルンバ、ザ・オイル・テイスターズなどのアーティストを収録した3つのカセット・コンピレーションをリリースし、チャールズ・バーンズによるカバーアートを掲載した。
1983年、パヴィットはシアトルに移住しレコードとスケートボード店を開きシアトルのパンク・オルタナティブ・シーンのコミュニティ拠点となった。また、地元のアート・音楽月刊誌『ザ・ロケット』でSUB POPのコラム執筆を開始。自身のファンジンで掲げたテーマを引き継ぎ、全米のインディペンデント音楽をレビューしながら、ラジオ番組やクラブのDJを務めた。1983年当時、ランDMC、マイナー・スレット、ザ・スミスを同じセットでかけるDJは国内でおそらく彼だけだった。これらのコラムの完全版は、バジリオン・ポイント社より刊行された『サブ・ポップUSA アンダーグラウンド・ポップ・ミュージック・アンソロジー 1980-1988』に収録されている。
1986年に、パヴィットは自身のレコードレーベル「SUB POP」を正式に設立した。最初のリリースは『SUB POP 100』というコンピレーション盤で、ソニック・ユース、ネイキッド・レイガン、スキニー・パピー、スクラッチ・アシッド、スティーヴ・アルビニ、ザ・ユーメンなど、彼がコラムやラジオ番組で取り上げていたバンドが参加していた。
1987年、地元音楽プロモーターで同僚DJだったジョナサン・ポネマンと提携。キム・セイイルの勧めでポネマンは2万ドルを投資し、サウンドガーデンのEPリリースを目的にパヴィットのSUB POPレーベルの50%出資者となった。
パヴィットとポネマンは1988年4月1日(エイプリルフール)にSUB POPレコードとして正式に法人化した。間もなく二人はシアトル中心部のターミナル・セールスビルに小さな事務所を開設。
SUB POPとシアトル市を世界的なロック音楽ブランドへと変貌させるため、いくつかの重要なマーケティング戦略を打ち出した。最初の施策の一つは、チャールズ・ピーターソンが撮影したライブバンドのダイナミックな白黒写真をフィーチャーすることだった。多くの写真では観客が際立ってフレームに収められ、彼らが対等な参加者であることを示唆していた。そのメッセージは、誰もがシアトルに来てシーンの一部になれるというものだった。
公式事業として、サブ・ポップ・レコードの最初のリリースには、地元バンドのスワロー、ブラッド・サーカス、TADによる限定版カラー・ヴァイナル・シングルがシリーズで含まれた。その後まもなく、レーベルはグリーン・リバーの『Rehab Doll』LPをリリース。このアルバムは1988年6月に発売されたが、バンドは数ヶ月前に解散していた。
12月にはコンピレーション『SUB POP200』が続き、3枚のEPを収めたボックスセットで、TAD、ニルヴァーナ、サウンドガーデン、グリーン・リバー、ビート・ハプニング、ザ・スクリーミング・トゥリーズといった北西部のバンドによる20曲を収録した。
影響力のあるBBCラジオDJジョン・ピールが『サブ・ポップ200』をレビューしたことでSUB POPは大きな成功を収めた。
1988年11月、SUB POPはニルヴァーナの7インチ・シングルをリリースした。これはニルヴァーナ初の作品であるだけでなく、SUB POPの新たなマーケティング戦略の一環でもあった。このレコードは、定期購読制の限定版シングルシリーズ「SUB POPシングルズ・クラブ」の第一弾リリースだった。
英国のメディアがSUB POPに注目する中、パヴィットとポネマンはさらなる世界的注目を惹く作戦を決行した。彼らは英国人ジャーナリスト、エヴェレット・トゥルーを招き、サブポップ所属ミュージシャンたちとのライブやアフターパーティーで1週間もてなした。この作戦は功を奏し、トゥルーは英誌『メロディ・メーカー』にシアトル・ミュージック・シーンに関する2ページにわたる特集記事を掲載。その1週間後にはマッドハニーが表紙を飾った。
1989年、SUB POP所属のバンド、マッドハニー、タッド、ニルヴァーナが地元、国内、海外で注目を集める中、パヴィットとポネマンはシアトルのムーア・シアターで3バンド合同のコンサートを企画した。このコンサートはニルヴァーナのファースト・アルバム『ブリーチ』のリリース・パーティーも兼ねていた。「 レイムフェスト」と名付けられたこのイベントは、各バンドにとって当時最大のステージとなった。6月9日、レイムフェストは完売し、ニルヴァーナはポップミュージック史へと続く階段を登り始めた。
英国メディアの熱狂的な報道がSUB POPとシアトル・サウンドの存在感を増幅させた。同年後半、3バンドはヨーロッパツアーを行い、1989年12月3日の「レイムフェストUK」で頂点を迎えた。パヴィットはこのツアーを2013年にバジリオン・ポイント社から出版された『エクスペリエンス・ニルヴァーナ グランジ・イン・ヨーロッパ1989』で回顧している。
1990年までに、SUB POPへのメディアの注目と、サウンドガーデン、マザー・ラブ・ボーン、アリス・イン・チェインズのメジャーレーベルからのリリースにより、シアトル・ミュージック・シーンへの注目はさらに高まった。メジャーレーベルがニルヴァーナに熱心にアプローチする中、SUB POPの財政は赤字状態が続いていたため、パヴィットとポネマンはニルヴァーナの契約をDGCに75,000ドルで売却したと報じられている。その後まもなく、1991年9月にリリースされた『ネヴァーマインド』でニルヴァーナはスターダムへと駆け上がった。
『SUBTERRANEAN POP』第1号でパヴィットが語った言葉は、ニルヴァーナがビルボードチャートでマイケル・ジャクソンを抜いて1位を獲得したことでついに現実のものとなった。DGCとの契約では、サブポップのロゴが全アルバムに印刷され、レーベルは販売枚数に応じたロイヤルティを受け取った。この思わぬ収入はSUB POPの状況を劇的に変えた。シアトルがグランジとオルタナティブロックの震源地となるにつれ、パヴィットはすぐにインタビュー依頼の殺到に見舞われた。
グランジの波に乗り、パヴィットとポネマンは1995年初頭、SUB POPの49%をワーナー・ブラザーズに2000万ドルで売却した。ユーモアのセンスを失うことは決してなかった二人。メジャーレーベル、金、全国的な注目によってシアトルの音楽シーンが完全に焼き尽くされた時期に、SUB POPは「俺たちが真っ先にSOLD OUT (身売り)したぜ!」というスローガンを印刷した。
1996年、パヴィットはSUB POPでの本業を離れた。その決断の背景には、レーベルの将来の方向性に関するポネマンとの意見の相違、そしてメジャーレーベルへの売却後の企業文化の変化があったと報じられている。パヴィットは最終的に残りのSUB POP株をポネマンに売却した。
SUB POP創設者として、パヴィットは文化的先見者かつシアトルのビジネス界の象徴と評される。彼の足跡はブロンズ化され、ジミ・ヘンドリックスやビル・ゲイツらと共にウォーク・オブ・フェイム歩道に埋め込まれている。2013年には、スペースニードル頂上での記念イベント(マッドハニーのライブコンサートを含む)でSUB POP創立25周年が祝われた。今日、パヴィットとSUB POPの物語は音楽史の一部となり、書籍、ドキュメンタリー、録音インタビュー、そしてシアトルのポップ・カルチャー博物館に記録されている。
パヴィットはSUB POP主催の日本版「レイムフェスト」公演に参加するため1993年の12月に東京と大阪を訪問した。出演バンドはファスバックス、シーウィード、ザ・スーパーサッカーズ、そして日本のスーパースナズだった。
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Bruce Pavitt(ブルース・パヴィット)来日記念 サイン会 & トークショー開催のお知らせ!
【イベント詳細】
日時:3月26日(木) 19:00~
場所:NONLECTURE books / arts
住所:東京都渋谷区宇田川町16-9 渋谷ZERO GATE B1